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2009年1月

小我について

 アマテラス紀では、現代文明においての霊魂の行方を追及してゆくつもりでありますが、その前に意識の上昇にさいして、どのような心理が理解を歪め、障害になっているかを論じておいたほうが良いかと思います。
 これら精神的題材は、およそ言葉や文字にできないもので禅宗的な体得によって悟ってゆくもので他に道はないと説く人、また理論化などとは高慢不遜なことであると言われる人もあろうかと思いますが、いわゆる「我を捨てよ」といわれるところの<小我>についてもう少し意識精妙質量の観点から理論化を試みてみたいのです。
 このブログにおいても<神、妖怪、幽界>というぐあいに非現実的抽象言語を使ったり、また反対に意識質量とか精神を化学反応的に見ることに違和感を覚え、頭からその思想自体稚拙なものとして決め付け軽んじたり中傷誹謗の感情が起ったとすれば、そこに潜在的な<ニヒルな虚勢心理・我>が働いていることに気付いておくべきです。およそニヒルな虚勢は表面の形態に強く感情反応して純粋な哲学知性を持たないものです。
 この思考性質は、人が現世に誕生して、物心ついてきた時点での段階<キューヴで説明した六段目、人間の意識段階である感情思考、詳しくは五段目から六段目の間、ここに小段階、生命の木を立てて考える>の意識段階から始まると考えている。

 まず、この段階の意識感覚は、さいしょ誰でも五感現実物理感覚からの意識反応で行動し判断し生活してゆくわけである。この一方的現実感覚によってのみ生活を続けてゆくことは自ずと次のプロセスを歩んでゆくことになる。
 <観念構造とプロセス>
 現実一方的基礎観念
 ①相対比較観念
 ②比較優越感情
 ③比較感情が幸福観念<快感器能>にまで凝固する。
 ④比較快感欲求による相克運命形態を繰り返す。
<スカラベ>理論参照、鏡による運命反復作用、慣性、重積。
 ⑤嫉妬憎悪感情の増強。この質量が下降の主要素<図では主軸>である。
 およそ、④ぐらいから運命<意識>の急降下がはじまる。
 次、理論イメージ図。
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 ※下降意識では、他批判精神は増強し、知性質量は減少してゆく。
 左の図は、生命の木的に解釈した進化の繋ぎ目<シナプス>を表している。その連結線は生命の木の三つのポイントに対応する意識器能に当たるであろうとする仮説に基づいている。参考までに挙げておいたが私たちはこれほど複雑難解な理論に挑む必要はないでしょう。

 このように人間意識は五感感覚からはじまり、そのままでは気付き難いゆっくりとした転生を通じた時間>によって自然に下降しているのです。
 五感現実意識は堅く重い性質。
 およそ①②段階までは一般良識観に沿って生活できるが、③段階ぐらいから比較優越快感が増強して他干渉が著しく多くなり、過剰な社会批判から精神的、現実的暴力テロ行為<④段階>に移ってゆく。この状態はテロ宗教のピラミッド組織構造に類似する。
 ※宗教と名乗る団体が全て精神的であると考えてはいない。外、他に過剰干渉するのは内実では狭い感性の現実主義である。
 一般的には③段階で、いわゆる皮肉やの形態をとり、他批判の誹謗中傷嘲笑の多さが結局自分自身の運命を辛辣に変化させ④段階へと下降速度を増してゆくことになる。
 ⑤段階では運勢や能力の低下が急速に現れ、憎悪感情が全体を占め、霊性である知性の質量は各段に減少し、嫉妬憎悪の質量が個人の思考を支配するまでに増強する。
 この時点での意識状態は、霊的内生観察は著しく低下し、他人の弱点を見抜く狡猾さの能力は研ぎ澄まされ、いかに自己の虚栄を満たし復讐できるかについての他批判にのみ意識質量が注ぎ込まれることになる。
※この下降形態を観察することがこれからの課題で、現代社会での例証はアマテラス紀の20世紀後半あたりで挙げて行ければと考えている。また現実一方的観念と、霊的観念との相違も差し挟んでゆくつもりである。

現実主義者は、多数決集団を好み、それから外れた者を批判し、さらに低下したものは狡猾に個人の弱点をつき法律に触れがたく表面良識にそっていれば、個人を陥れることに関しての精神的呵責を感じることがなくなっていく。

 相対比較感情に支配された思考は、人間の快感、幸福観念にまで凝固していて、しかもそれは自覚されてはいない。しかし、この観念、心理構造こそが思考を歪め、判断を誤らせ、相克の運命を醸し出し、気づかぬうちに霊魂を下降させてゆく元凶なのである。この意識プロセスは、ある意味自然の成り行きでもある。つまり人間の段階にまで達した意識も、与えられた当然とする認識のままでは再び元に帰する構造となっているのである
意識感情エネルギーは凝固してゆく性質。どのように結晶化させるかが問題。
下降する運命の過酷さのどこかで形而上の理念に気付いてゆかねばならない。つまりここに下行く者との選択の道があり、その自主的気づきのことを仏教的に発願というのでしょう。
 じつに悟道を行く探究者は、まず自分自身でこの比較優越感情心理に気付き見据えて管理してゆくことが根本的作業であり、自他を観察する時も、この心理作用に気が付いているかどうかでほとんど見分けがつくものである。それはその人の判断要素がどのあたりにあるかが読めれば充分である。また反対に、自分はこのような感情はもはや捨て去っている、と思っている人はさらに迷妄に陥ってしまうものです。というのが現世では、この心理を消すことは無理であって、この世で生きる限りは付き合ってゆかねばならない、この世に降ろした錨のようなもので、要は管理するべく愚かさなのである
 この心理構造に気がついていない現代人にとっては、この観念を捨てることは実際死ぬことよりも辛いことになっている。比較優越観念が、欲動のままに表現されれば傲慢と呼ばれ、現世の良識に沿って表現されればプライドと呼ばれているわけである。

 神智学の創始者であるマダム・ブラバッキーの伝記に次のような逸話が載っていたと記憶している。B夫人は傍らから見ればすごく傲慢な人物であったようで、ある日かなりぶしつけな質問がなされ「あなたは、どうしてそう傲慢なのですか」と問いかけられたようである。その質問に対してB夫人は「それは、あなた方の利得、私の損失」だと答えたそうである。それはこの傲慢な習癖がなければ私はこの世に居なくて済む。これがあるからこそこの世で生きて、あなた方はこのような知識を聞くことができるのです。ということで、人間はどのようなものであれ、偏った習性<言い換えれば罪>を背負ってこの世に生まれ落ちることらしい。

 まとめ

 ニヒルな虚勢、我が、意識の下降の主軸となっている。
 霊線を太く確保してゆく人と、霊線を断ち切ってしまう人とに分離する。
 霊線は、霊的感性である。

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